*ぷみささんちの白紙帖

ぼくのこころのふりーだむ。

お盆だョ❕夏の夜長のヲカルト語り

連休のすごし方をもてぁました誤植修正一挙放送版。

『くねくね』
それな。まずあの怪異譚につぃては"理解してはならなぃ"といぅ点が肝となっていて何故ならば恐怖といぅものは理解ができなぃからこそ起こるんだ、つまり幽霊の正体見たり枯尾花などといぅがそれが何者か分かればこゎくなぃわけだね、数々の妖怪話に対処法があるよぅに。しかしこの件は
それが禁じ手的に封印されているんだ。解明できなぃ。そこに無二性の強みがある、そも人間はシミュラクラ現象なんかっていぅ元々錯覚を見やすくなる生物的機構が備わってるのだけれどそぅいう精神的病理作用としての集団ヒステリーといぅものが存在してそれが数々のヲカルトの幻覚作用なんかにも説明の
根拠としてなされることなんだけれども―これは怪異への反ダーウィニズムともゆぇる、しかしその実態は究明活動体系として実は両翼であるべきで、世界がそもそも何であるのかといぅ概念つまり…『人間の想像力』といぅ一つのテーマに「思考」と「観察」の双方向から迫るといぅ
ことなんだ。そぅ―怪異―そしてその与ぇる恐怖とは、なによりもそれの観測者たる『人間』自体の究明によって完成する。べくからして、まずその基本的な性質につぃて一つ説明せねばならなぃ。それはフォークロア…寓話-物語としての存在は、先の仮説の例に代表されるよぅに、人間の持つ共感性そのものが
そのトリガーとしてファクターを形成し、それをマテリアルとしてマニュファクチュアリングする。"寓話"が存在するのではなぃ、"人間"が寓話を製造するのだよ。そぅ、テラーは人間の精神そのものを室、培養床として拡大するのさ。その数が多ければ多ぃほど彼等はミームとして力を持つ事が出来る。喩ぇば
先の師匠シリーズ、寺生まれのTさんなんかの物語の場合ぃ、そのキャラクター性としての魅力から"共感性"-としての上での強いミームを特に獲得した。そして不特定多数の手により次々と物語が生まれ、それを系としてジャンルを形成できた訳だ。無論この場合は解明者の獲得といぅカタストロフの中にあり
今回テーマとする"くねくね"における談義の対象性として例に出した。さて、怪異譚といぅ物語の感情作用面に於ぃて、まず簡単に二種類あると思っている。こぅして怪異の、恐怖と闘ぅヒロィズムであるもの、そしてもぅ一つは"理解"―そのアハ体験による未知の概念のアポトーシスへ至るまでのカタルシス
楽のしみつづける、といぅものだ。我々の精神上に根差しその物語―怪談として形成した怪異の概念とは、自己の内面上の存在にしてそれとは異質の物である。自己にして自己ではなぃものの存在、己の世界への明晰さこそがつくる姿。だから彼等は"影"や"闇"のイメージを請う。人間の未知に対ぃする好奇心へ
の感覚はそこに暗部、深さといぅ印象を残し、折にそれを世界の存在へ反駁すらする驚異的な力とも感んづるのだ。つまり理解できざる物語…"怪談"としてそれがおそろしさの力を持ち在りつづけるには、わかられぬことが肝要なことになる。いまそぅ、その聖域こそへものともできなぃ者の説明が可能となる。
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理解力といぅ叡智・そしてその集団的な精神作用をミーム化し巨大な概念形成への拡大性を担なぅ共感性により理解せざる~怪異の恐怖への最大の方策となるそれが『人間そのもの』の精神といぅ、彼等の温床-生産者としての在り方そのものだ。そしてその最強の理論すら反駁しよぅ。怪異、恐怖-その己達の物
語として―、これほどまでに手出しの出来ぬ存在は―何故ならば他者へ観測者としての"共感"を与ぇられず―その理解により『人間』そのものの破壊を与ぇるくねくねにとって―これは、ほかになぃ。何故なら『究明』といぅ活動そのものが禁忌であるから。それによりくねくねは怪異として唯一にして孤高となる。
といぅ巫山戯てかぃたくねゝ長文