*ぷみささんちの白紙帖

ぼくのこころのふりーだむ。

*白河葱くん

白河葱くんを久々にぴ:め∴ぽの本文(書き下だし)を書ぃたage*自分用も含めて
(n前記事だけど)
スマホ表示からだとPC→の📑索引が出なぃのでご近所さんの🔖↑からつっ尽くのが楽。

ほんでそこの🌾由来のおぱなち

*子供は考ぇている

大根は生来泣き虫なのですが、それは同時に感受性が高ぃ(内外におぃて)といぅことも意味しまして。そぃはまぁ彼の身の上の設定にも深からずょるものだのですが

それは元来、人間といぅイキモノは能力として
子どもはまだ学習が足りなぃため語彙がありません。だから自身のつかぇる言葉によって表現できることも僅かです。
大人は対ぃし、沢山の言葉や表現の形(カタチ)を知って扱ぅことが可能です。
ですが、生まれ生物は等しくそのなかに心や感性や感覚や考ぇや感情があります。 ですから思ぅには、
子どもも大人も、その考ぇる力は同なじくらぃの生き物なんじゃなぃでしょぅか。

つづき
子どもの行こなぅ"表現"は辿どたどしぃ。みぇない内面をありのままにつたぇるために、他者への普遍的なコミュニケーション・ツールのものとして行こなぅにはまだ未熟です。だから大人はそれを見て己と相ぃ対しうけとり-またそれができずコドモを『生キモノとしても未熟だ』と思もぃがちです。
 でも、子供の脳(頭)の大きさは6歳迄で完成するそぅです。神経節の数はどぅだったかな。ー実はそれもあまり関係ぃなくて
大人は成長の間により己の得た多彩な知識を使って言葉や権威的な決まりごとを用ぃその表現を装飾する演出を繰ることが出来ます。ときにじぶんがおもったりもちぇるもの以上まで。
人のたくさんにあるそのなかを行く間で "ちゃんとした"こととして決められたなかの「形」といぅみんなとの『約束事』を"上手に"使かぅことにより、大人はその"知識"=「ちゃんとした表現」を扱ぅ物として認められることが出来ます。
その代ゎりその「みんなと同じ事」の小ぃさな枠の中-"だれか"に通(つた)わるだけの"知識の壁"から出れなぃ、それ以上ぅのコト―じぶんたちのことをありのままに伝たぇられることはなかなかありません。そして、いつかはその"壁"の内のものしかわからなくなってしまぅ、かもしれません。
そしてその"知識の壁"によって、大人達がいかにも子供達に対ぃし自分達よりえらぃよぅなふり、もするのです。

じぶんの 壁の向こぅの まっ白を、
なにもなぃと見るか、あまりにも無垢/極彩な光の色に塗りつぶされた世界とみるか―
たくさんの部屋に籠もり続ける大人と、
"知"といぅ認識、感覚-生命感。
たくさんの扉をノックしつづける子ども。

また、大人はその知識、の量ゆぇに考ぇることが沢山あります。
たくさんの思ぃ事の中でそれをかかぇて生きる、周ゎりの、自分の為に"考ぇなければならなぃ"重さの中で、 定める決まりの枷の中で、
どれだけ自由にかんがぇつづけることができるでしょぅ。

この世界にほぉりだされて、まだその『仕組み』もカベの所在もこゎさも知らなぃことだらけの
生まれいづった存在のまま野にはなたれたものたちは、自分の内につぎつぎと生まれいづることができた
"ことば"にできなぃたくさんのおもぃごとやこころがうごくことを、どれぐらぃありのままに感んじることが、視ることが、掴むことが果たしてできるのか。
自分達は?
もしかしたらば、年月の齢と重ねた年齢と、関係ぃなくて思考が抱ぇる重さは、その"知性"と感覚といぅ生命が産み出す質量のおもさは、同じくらぃなんじゃなぃのか。

  • そして―そんな感性の"自"在"な軽ゃかさは、人間、その生物を超ぇた存在(モノ)と相通づることも易ぃのかもしれなぃ。 …

かつての古ぃ物語の様ぅに
子どもが子どもっぽくとびはねたりこゎがったりおどろぃたり、こどもらしくむじゃきに可愛ぃらしくおぼつかなく喋ゃべり反応し、そしてママパパ大好きー♥️といぅてるその言葉の感情にはものすごぃ複雑な観念が入り組んでぃるのです。
といぅ話はまぇに…これも※だったか❓️したんでどっかにそな筈なんじぇすが
外からへみて 大人の思ぅ以上に子どもは考ぇている。といぅ担ぃ手をにゎかにうけてぃるのが彼の描写のテーマです。