*ぷみささんちの白紙帖

ぼくのこころのふりーだむ。

*地方公務員郷想譚森兄弟


>むしろちょぅなんは『お里の象徴』として
地方公務員伝説(源題)おけるところの
守りたぃ、この笑顔といぅポジのゆぅとぴぃやである
彼等のジモティーを「こぅいうふんぃきの処だよ」と示(顕)すためのイメェーヂキャラクターをになぅところでもありました。
地元を一番に象徴した存在でぁる人=一番地元らしぃ人間なんです。
故郷の気を一番吸って吹ぃてる年長者で古株だからね。

なんかとんだりはねたり脱ぎ出したけど。

まぁとくにかれらにとってとくだんとくにでもなぃことをしてるだけなんだけんどもね(つまりとくにむづかしぃことはなぃ大自然体なのでぁる

>お里のモヴの人々の代表者キャラ、
と彼の人隣りの解釈につぃて考ぇてもらぅと遜色なぃです。

それは彼(なぃしサムシング)がお里のイタコ⇒信仰的酋長の在り処をうけつぐものとしての身の上も関しなぃことではなぃとぉもいます。

時代によってお里の有り方も変ゎっています。今日々奥里ヶ以郷(お里)に暮らしているのは主に古くからの土地にとどまる年寄りの人達と、その生き方に共鳴するお里の生き方を愛する各人達でぁり、
若ぃ人たちはライフスタイルの変化で中央の都市部へ流出し、お里にのこったのは偉蔵(三男)とその友人など周囲の何人かの由来ある人々に限ります。郷外で所帯を持ちUターンでもどってきた甚蔵(二男)もここでは若手の方ぅなのです。


様々な世代がその個々間の文化観を持って
生きてぃるなかで、そのなかでも長男は、
古来の「自分の於かれた立場に従って幸せに暮らしてる人」なんですね。

立場によって自分の生き方が縛られるといぅのは、現代人の価値観でいぇば悲劇と呼べるものなのかもしれません。
(それをまともに受けたのが都憶詩の彼らなんでしょぅ)

なぜならば現代は個々が尊重される文化にあり、一人々の幸福が貴っばれる世の中であるのだからです。お国の法もそれを律っしません。
三男もその中に生きていると思もぃます。


しかし、侃蔵(長男)にとってはそれは己の人生の”かたち”ではぁりませんでした。自身にあたぇられた所属と責任、日々奥里ヶ以のお里のお山の”侃ちゃん”でぁることそのこそが
生来の土地、『自分達の里』といぅ運命共同体に帰属する幸福であったのです。

それは文化や立法に準じるものですらなぃ、ありのままの自分の”生のかたち”といぅ、人生観や倫理観とはまた一重に違がぅ、感性観といぅべき”魂”と喚べたものなのかもしれません。


この世代における”魂”―ごくしぜんにありふれたただおのれのもの、自身の幸福における選択性は、また”精神性”として…自分がじぶんとして成立する已然の処で生(は)ぐくまれます。
だからこそ生きた世代や文化の環境によりそれが反動と変革の時代のなかにあればなをの事、お互ぃはジェネレーション・ギャップを抱き、頻繁に衝突しときに激しく闘ぃます。
\ガンバれ甚さん(そこのまんなか)/
森三兄弟達の年が離れてるのは疑似三世代の再現をもたせたものでぁり、
また公務員大喜利といぅその文明歴史上に生きる人々の文化性(カルチャーシステム)の発育の大綱をいぢるにあたりて∴各時代の寓意と偶像性をとくにキャラクターたちそのものに抱かせています。

その上で、各時代に
長男は古来の伝統感―ときに神秘性の象徴です。
二男はその間でおちつきながらもゆれてぃます。
三男はそれと提疑し再考し合ぃ、なを超ぇてってゅくことを望んでぃます。
地方公務員…運命共同体といぅ文明に生きる人の生そのもの奉仕者にして代行者いぢりとは、公⇔民だけでなく、彼等そのものの紡ぐ物語で存るのです。

つまりいろんなおっさんが描けてぼくゎ楽のしぃ(作者のきもち)。